音楽エッセイ「頭がクルクルするの」

それを言われた一瞬、私は彼女が不愉快な思いになったのかと思った。

私が朝からほんの数時間、ブツブツ独り言を放ちながら練習していたあとのお昼に、そう言われたのだから。

 

「アイティの練習を聴いているとね、なんだか頭がクルクルするの」

 

私はその頃、このユア・オーケストラの準備のため関東平野の成れの果てのような立地の母宅を飛び出し都内のホテル連泊から金銭的事情のため友人のシンガーゆうこさん(仮名)がタレントやモデルのために運営するシェアハウスにお世話になっていたところだった。日中、彼女らの活動の邪魔にならない範囲ならば練習も可能……その条件に飛びついて私はそこにいた。

 

彼女は、拭き掃除をする手を止めないで話していた。

「うん、なんかね、頭の回転がクルクルはやくなる気がするの」「クラシックってこうなんだね。この感覚、好き」

 

上背が高くファッショナブルな出で立ちを保つ彼女が口にする、素朴なクラシック音楽への感想。私は「あぁそうね」「全てのクラシック音楽がそうだとは思わないけれども、数百年もの間残って未だに演奏され聴きたい人がいる作品というのは、そういう力があるんだと思うし、その普遍性が愛されてきているんじゃないかな」

そう答えながら、いかにしてよりクラシック音楽を知ってもらうか考えていた。

 

例えば、こんなのはどうだ?

 

シューベルトの交響曲第5番。今回のメインプログラムだ。フレンチのコースでいったら、正にメイン。今回のプログラムをコースに例えるとそうだな。前菜、スープはヴィヴァルディの四季。モーツァルトは野菜のポワレか。メインディッシュは帆立か白身魚だろうな。デザートは軽やかなムースかゼリー。スープはもしかしたらポタージュかもしれない、ヴィヴァルディの四季のラストの「冬」に合わせたらきっとそうだ。

 

このメニューの内訳をこのように表現してみよう。

 

ヴィヴァルディの四季は、バロック時代と言われる頃に書かれ、端的にお伝えするとその響きは軽やかでなんともメインディッシュには難しい。その代わりに、季節感は「四季」というタイトル以上だ。寒暖差が増してきた今日この頃は「冬」の第2楽章が恋しい、けどこの冬は大自然の過酷さを描いているから、こんな厳しい音楽がメインディッシュに来られちゃたまらん、というわけだ。

モーツァルトのこの作品は、きっと彼がトランペットの音を聴いて酷い拒絶反応を示したような頃の作品だろうな、彼にとって”良い音の楽器”しか好きでなかったらしい。かと言って幼い感性ばかりかというとそうではない。大人になってからの作品にも通じるリズムを発見したとき私は鳥肌が立ったものだった、これぞ天才、と。で、短くて軽いから野菜のポワレ。サラダよりはずっと味わい深いから。

 

そうして、メインのシューベルト。

これは、なんだ?

 

若草が茂る草原を踏む、彼は前に行く、夢があるから。

行った先で、彼は浸る。自分が思い描く女性と、遥か遠く離れた母親へ。

理不尽な戦い、これも我が身に起こったことだ、迎え撃つさ、その先のために。

母さん、ここには幸せしかないよ!僕は幸せを手に入れた、妻となる女性と共に!これから色んなことがあるだろう、その全てを愛するさ、なんたって僕は幸せなんだから!

 

これは、私がこのシューベルトの5番から感じた物語なのだが、これをメインディッシュにするならばやはりあまり重くない調理なのでは?でないとその先(家庭生活が)続かないよね?と感じ、帆立や白身魚なんだと思う。で、デザートも今の時期ならばチョコレートが効いたムース、タルト生地。胡桃のタルトでもいい。ここで果実にすると、ヴィヴァルディの四季の季節感を邪魔しそうだ、何しろ相手は数百年を経ているからな、これぞ傑作、人類の遺産。これだけで乾杯したい気分になるくらいだ。

 

このコースで物足りない人は、メインディッシュにブラームスが置かれているプログラムを聴きに行かれるといいだろう。赤ワインで煮込んだ牛肉に生クリームを使ったソースの味わいがするよ。そしてデザートのアンコールにはブランデーの薫り漂う小さめのお菓子のような曲が用意されているから。

 

そう、クラシック音楽とはこのように、いかようにでも言葉を置き換えられ自由に想像ができる音楽なのです。少なくとも私にはそうだ、シューベルトの一楽章はあのアルテュール・ランボーの「感覚」のような景色だし、書かれた変ロ長調は柔らかくてまるでふんわりとしたガウンみたい。はやくお風呂に入ってゆったりとガウンに身を包まれたいな、お気に入りのパジャマの上に。

 

 

 

文責:田中幾子

 

 

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